遺産にまつわる物語
地名の由来は、鎮西山に狼煙台を築くために、当地の石を運びすっかりなくなったので「いしない」と呼ぶようになったとか、大水の時、川原の石が響きを立て流れることによる、ともいう。下石動天満宮は菅原野道真の子孫、菅原広玄(ひろはる)が領地を移し、戦国末期の元亀3年(1572)に館の鬼門にあたる丸山の地に社殿を建立し、道真を奉祀したのが縁起と伝えられている。しかし本殿には室町時代前期の神像4躰(町指定重要文化財)があり、神社の起源が遡る可能性もある。石動地区では良質な米が取れるため、江戸時代には佐賀鍋島藩への献上米としていた。
特徴
石動地区は、田手川の扇状地に位置し、農地が広がっている。下石動地区は、弥生時代から、鎌倉時代の集落跡が確認されており、現在の集落の下に広がっていると推定される。下石動天満宮と集落は田手川の氾濫を避けるように、鎮守の杜である丸山の東に立地している。境内にある樹齢550年の大楠や樹齢450年の大銀杏、田手川から目達原段丘上へと続く農業用水路「前川」など、歴史と風土を感じさせる要素が残されている。
保存や活用の取組
地域には25年に一度の大祭をはじめとして、もぐら打ち、千灯篭、奉納相撲、綾部さん参り、おくんち、お日待ちといった伝統行事が受け継がれており、昔ながらの農村集落の風俗・習慣を残して、神社を中核にしながら、佐賀らしい農村風景を今に伝えている。平成5年には「農村景観百選」、平成9年には「新さが百景」に選ばれた。